高畑勲展へ。
現在、東京国立近代美術館で開催されている『高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの』へ行ってきました。
高畑勲さんははご存知の通り宮崎駿さんとともにスタジオジブリの設立に参画し、『アルプスの少女ハイジ』、『母をたずねて三千里』、『赤毛のアン』などの演出,
『風の谷のナウシカ』などのプロデュース,
『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『じゃりン子チエ』、『セロ弾きのゴーシュ』、『火垂るの墓』、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『ホーホケキョ となりの山田くん』、『かぐや姫の物語』などの脚本・監督
を務められた、アニメ界の変革者です。
去年、82歳で亡くなられました。
さて、高畑監督は我々藤子不二雄ファンに無縁なのでしょうか。個人的に(いや、人間
みんなそうだとお思いますが)高畑監督の大ファンですしスタジオジブリの大ファンです。手塚先生も(特に)宮崎駿さんらは互いに(諸説あり)結構ライバル感があったり同業者として刺激し合うような良いご関係があります(個人の見解です)。ただ、藤子不二雄ファンとして覚えておくべきことがあります。
それは、高畑監督は、アニメ ドラえもんの立ち上げにも関わっているということです。
えっ!と思う方もごもっとも。最近まで語られなかった事実で、現シンエイ動画名誉会長の楠部三吉郎さんの著書『「ドラえもん」への感謝状(小学館 2014年刊)』で初めて語られたことでして。。
このことについて高畑勲展撮影オーケーコーナーの写真や資料の写真などとともに書いていきたいと思います。(撮影オーケーコーナーの写真は全てハイジの写真です。)
さぁ、話は1979年にアニメ ドラえもんが始まる前の前の年。
楠部三吉郎さんの回想では、1977年秋に原作者である藤子・F・不二雄先生(当時は藤子不二雄先生)にアニメ製作の許可を求めると、藤本先生はしばらく沈黙してから
「いったいどうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか。原稿用紙3、4枚でいいから、あなたの気持ちを書いてきてください」
と答えました。楠部さんは旧知の高畑勲監督に依頼して企画書を書いてもらい、高畑監督とともに再度藤本先生を訪れて企画書を見せると、藤本先生は
「わかりました。あなたにあずけます」
と即答したといいます。
楠部さんは後日藤本先生が
「『オバQ』にしても、『パーマン』にしても、みな幸せな家庭へ嫁に出すことができました。でも、『ドラえもん』だけは出戻りなんです。(中略)だからもし、もう一度嫁に出すことがあったら、せめて婿は自分で選ぼうと、そう決めていました」
と、企画書を求めた理由を話したことを記しています。*1
この「でも、『ドラえもん』だけは出戻りなんです」というのは日テレ版ドラえもんのことです。日テレ版ドラえもんは虫プロが製作していたものです。ほんの数回で終わってしまったものです。とっても視聴率が悪かったんです。
現在は著作権の関係もあり、関係者や講演、イベントぐらいでしか見ることのできない、アニメファンの中でも語り継がれる貴重な作品です。一回だけ見たことがあるのですが、それは虫プロの社員で手塚先生の秘書だった、下崎闊さんの講演でした。この日テレ版ドラえもんを見る前にも下崎さんが「今日、ドラえもん見にきた方はいらっしゃいますか」と聞かれたほどです。そして上映。
1番最初に驚いたのがドラえもんの声が酷くおじさんっぽいガラガラ声。イメージが壊れますし、、しかも、ガチャ子という原作にはない変な(?)キャラクターも出てきます。
人気低迷、視聴率低迷の大きな理由は、原作をいじりすぎたということ。
藤本先生も
『これについては語りたくない!』*2
とおっしゃっているほどです。
普通、アニメが打ち切りになるとマンガも打ち切りになるというのが常識で…『ジャングル黒べえ』も『パジャママン』*3その例です。
そしてドラえもんも打ち切りに………と思いきや、、当時入社したてのえびはら武司さんら(?)が藤本先生を必死に説得し何とか連載が続くことになります。*4
そしてその後………
話は戻って高畑監督が企画書を書いた時のお話。その直前、楠部三吉郎さんはAプロでの知り合いであったため、高畑監督のお宅を突然訪ね、楠部三吉郎さんが高畑監督にドラえもんの単行本1〜13巻まで積み上げ、「何も言わず、読んでくれませんか。」と言ったそうです。楠部三吉郎さんは高畑監督に「藤本先生に渡すアニメの企画書を作らねばならない。」と言いそれを頼んだということです。
そして高畑監督はドラえもんを読みます。
「もちろん藤子不二雄さんのことはスゴイと思っていましたし、尊敬もしていました。子供の心を解放する天才だと。『長くつ下のピッピ』を立ち上げる際、その例として『オバケのQ太郎』を引き合いに出しているほどです。当時はまだ藤子・F・不二雄という名前はありませんでしたが、この傾向のマンガの作者が藤本弘さんだということは知っていました。しかし『ドラえもん』は未読でした。
手にとってパラパラ捲ってみると、これが面白い。いつも以上に子供の心をぐいぐい捕まえる力がある。夢中にさせる力がある。子供の願望を、こんな形で叶えるキャラクターを出現させるなんて、画期的だと思いました。しかも、ただ夢を叶えて終わるのではなく、のび太の失敗によって、現実世界はそんないいことばかりじゃない、ということもちゃんと教えている。
(中略)
私は世界名作劇場シリーズを離れる気はありませんでしたから、企画書を引き受けたところで、その後のアニメ『ドラえもん』に関わることもできません。お金で口説かれたわけでもありません。三吉郎さんの情熱と、ドラえもん作品の魅力に、私は思わず「分かった」と答えていたのです。」(高畑監督)*5
その時に製作されたものかどうかは不明ですが、今回の高畑勲展では最初の年譜のあるところに、ドラえもん関連資料として展示されていました。
「残念ながらこの企画書は失われているようです。
(中略)
ただこれだけは覚えています。美辞麗句によって原作を褒めそやすのではなく、『ドラえもん』の魅力の本質はどこにあるかをまず書き、原作者にこちらがそれをきちんと認識・把握していることをアピールしました。」(高畑監督)*6
展示されていたのはアニメにしたいお話と道具、その話の簡単な内容が書かれていました。
もしこの素晴らしい企画書がなければ今年で40周年になるアニメもなかったかもしれませんね。
この企画書を藤本先生に渡す時も高畑監督は同席していたそうですが、藤本先生とのやりとりは楠部三吉郎さんだけで喋りもしなかったそうです。
『Fライフ04』pp076-pp077 スペシャルインタビュー 高畑勲 アニメ「ドラえもん」と私。では最後にこんなことも述べています。
<<参考文献>>
・『Fライフ04』pp076-pp077 スペシャルインタビュー 高畑勲 アニメ「ドラえもん」と私。
・高畑勲展図譜
・『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもん達との思い出編』竹書房刊 えびはら武司•著
END