虫とFとⒶ

手塚治虫先生、藤子不二雄両先生について語るブログです。

【訃報】和田誠さん死去。

イラストレーターの和田誠さんが、10月7日に亡くなりました。大雨とか即位礼正殿の儀とかのニュースが多くてあまり伝えられず時間が経ってからの記事となってしまいました。

 

和田誠さんは、週刊文春の表紙や日本社会党ロゴマークなどでも有名な方ですが、手塚先生との交流もあります。

 

アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二柳原良平真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。1961年(昭和36年NHKで放送開始の『みんなのうた』に参加し、初のアニメ映像作品『誰も知らない』を始め、他9曲の映像を製作した。また、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』のオープニングタイトルを手掛けている。

和田誠 - Wikipedia  より引用

 また、手塚先生の有名な自伝である『ぼくはマンガ家』の表紙、 

ぼくはマンガ家 (立東舎文庫)

ぼくはマンガ家 (立東舎文庫)

 

手塚先生のマンガ作品『フィルムは生きている』の表紙、

フィルムは生きている

フィルムは生きている

 

 『手塚治虫ランド』の表紙、

手塚治虫ランド (1977年)

手塚治虫ランド (1977年)

 
手塚治虫ランド 2

手塚治虫ランド 2

 

アニメ『フィルムは生きている』の題字


フィルムは生きている

 ※このアニメは手塚治虫先生の死去に伴い国立近代美術館で1990年に開催された「手塚治虫展」のために制作されたもので、タイトル題字は手塚治虫先生と親交のあった

石ノ森章太郎先生、川本喜八郎先生、加藤芳郎先生、鈴木伸一先生、藤子・F・不二雄先生、藤子不二雄(A)先生、和田誠さん、久里洋二先生先生、横山隆一先生、馬場のぼる先生

が一文字ずつ描かれました。※

 

などを担当されました。

 

『ぼくはマンガ家』に関しては手塚治虫先生が1番気に入っていた装丁だったといい、現在流通している立冬舎版でも採用されています。

wadamakoto.jp

ご冥福お祈りいたします。

 

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