フレデリックバック監督『木を植えた男』
皆さんは『木を植えた男』という短編アニメをご存知ですか?
これは世界的に有名なアニメーション監督、フレデリック・バック監督の作品です。1987年に発表された作品で、アカデミー賞短編アニメーション賞も受賞されています。絵本にもなっているのでご存知の方は多いと思います。
- 作者: ジャンジオノ,フレデリックバック,寺岡襄
- 出版社/メーカー: あすなろ書房
- 発売日: 1989/12/01
- メディア: 大型本
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普通のアニメとは異なり鉛筆画などを使って写していくという、なんとも大変な作業をする作り方なので、制作期間がとても長いです。フレデリック・バック監督もこの『木を植えた男』の制作中にインク(?)が片目に入ってしまい失明してしまったという話もあります。
しかし動く絵はまるで一つ一つの絵画作品が並んでいるようで、とても印象的で独特な世界観というものがあります。
さて、『木を植えた男』は様々なアニメーションフェスティバルに出品されます。
アヌシー、オタワ、ザグレブと並ぶ世界4大アニメーションフェスティバルの一つで、国際アニメーションフィルム協会(ASIFA、en:International Animated Film Association)公認フェスティバルである、広島国際アニメーションフェスティバルにも出品されます。この映画祭は第1回は1985年開催で初年度は被爆40周年を記念して開催された、2年に一度8月に行われる大規模なアニメーションフェスティバルです。
この広島国際アニメーションフェスティバルは、第1回(1985年)の開催で、手塚先生の『おんぼろフィルム』がグランプリを受賞しています。当時の豪華な審査委員はご覧の通り。
国際審査委員(*は審査委員長)
ラウル・セルヴェ* (ベルギー)
ワン・シューチェン (中国)
ブジェティスラフ・ポヤール (旧チェコスロバキア)
イシュ・パテル (インド)
ロビ・ロンカレリ (アメリカ)
福田繁雄 (日本)
久里洋二 (日本)
国際選考委員(*は選考委員長)
アントワネット・モゼス (イギリス)
ジュールズ・エンゲル (アメリカ)
ランコ・ムニティッチ (旧ユーゴスラビア)
古川タク (日本)
川本喜八郎* (日本)
そして1987年開催の広島国際アニメーションフェスティバル。なんと、国際審査委員長に手塚先生が選ばれます。そして国際選考委員長に小池さんのモデルでお馴染み鈴木伸一先生が!!!
国際審査委員(*は審査委員長)
テ・ウェイ (中国)
ポール・ドリエセン (オランダ)
ニコール・サロモン (フランス)
ブルーノ・ボツェット (イタリア)
ユーリ・ノルシュテイン (旧ソ連)
手塚治虫* (日本)
国際選考委員(*は選考委員長)
レニア・オナシック (カナダ)
ヴェロニク・スティーノ (ベルギー)
ペーテル・ソボスライ (ハンガリー)
なみきたかし (日本)
鈴木伸一* (日本)
そ、そして受賞作品のグランプリは………
『木を植えた男』 フレデリック・バック (カナダ)
です。この広島国際アニメーションフェスティバルの審査員は横尾忠則さんや元虫プロの杉井ギサブロー監督も務められます(余談余談)。
そして,『木を植えた男』をグランプリに選ばれた手塚先生は、のちに手塚先生の自著で『木を植えた男』について語っている場面があります。
残念ながら作品の評価についてではないのですが非常に興味深いお話です。
そのことを書いてるのがこの本。有名な本です。
環境問題について書かれているところです。
ここまで来て『木を植えた男』の内容を言ってなかったですね……
40年ほど前の1913年6月、フランスのプロヴァンス地方の荒れ果てた高地をあてもなく旅していた若い「私」は、この荒野で一人暮らしをしている寡黙な初老の男に出会う。近くには泉の枯れた廃墟があるだけで人里もないことから男の家に一晩泊めてもらうことになった「私」は、男がドングリを選別しているのに気付く。手伝おうと進言した「私」だったが、男は自分の仕事だからと言って断る。
翌日、男がこの地で何をしているのか気になった「私」は、もう1日ここに滞在したいと言うと、男は構わないという。はじめは散歩と称して男の後をついて歩いていた「私」だったが、男から「何もすることがないなら一緒に来ないか」と誘われて、男と連れ立って荒れた丘へ登る。そして男は、前日選別していたドングリを植える。
「私」は男に様々な質問をし、男はそれに答える。男の名前がエルゼアール・ブフィエであること、55歳であること、かつては他所で農場を営んでいたこと、一人息子と妻を亡くしたこと、特別にすることもないのでこの荒れた土地を蘇らせようと思い立ったことなど。ここが誰の土地かは知らないが、3年前から種子を植え始め、10万個植えたナの種子の多数は駄目だったが、1万本ほどは育つ見込みがあるという。ナラ以外の植樹も計画していると話すブフィエと「私」は、その翌日に別れた。
翌1914年から第一次世界大戦が始まり、従軍した「私」はブフィエを思い出すこともなかった。5年後に戦争が終結し、わずかな復員手当てを貰った「私」は、澄んだ空気を吸いたいという思いから、再び1913年に訪れた荒野へ足を運ぶ。ブフィエや彼の植樹活動のことを思い出しながら廃墟を過ぎ、かつての荒野に近づいた「私」は、荒野が何かに覆われているのに気付く。
ブフィエは変わらず木を植え続けていた。戦争のことなど全く気にせず木を植え続けていたというブフィエの言葉に、「私」は納得する。「私」とブフィエは連れ立って、10年前の1910年に植えられ、荒野を覆うように育ったナラの森を歩く。「私」の背丈より高く成長したナラの木々に、「私」は深い感銘を覚える。ほかにも「私」が従軍していた1915年に植えられたというシラカバの森は、「私」の肩のあたりまで成長していた。
1920年以降、「私」は年に1度は必ずブフィエを訪ねるようになる。ブフィエの計画は常に成功したわけではなく、1年がかりで植えたカエデが全滅するなど悲劇に見舞われることもあったが、ブフィエは挫けることなくひとり木を植え続ける。木々の復活はあまりにゆっくりとした変化だったため、周囲の人間はブフィエの活動に気付かず、ときどき訪れる猟師などは森の再生を「自然の悪戯」などと考えていた。また、森林保護官が「自然に復活した森」に驚き、そこに住むブフィエに「森を破壊しないように」と厳命するなどの珍事まで起こる。しかしそういったことも関係なく、ブフィエは木を植え続ける。
その後も第二次世界大戦など様々な危機があったが、「私」の友人である政府役人の理解と協力などもあって、森は大きな打撃を受けることはなかった。ブフィエはそれらも気にせず木を植え続け、いつしか森は広大な面積に成長していた。森が再生したことで、かつての廃墟にも水が戻り、新たな若い入植者も現れ、楽しく生活している。しかし彼らはブフィエの存在も、ひとりの男が森を再生したことも知らない。
ブフィエは1947年、バノンの養老院で安らかに息を引き取った。
( 『木を植えた男』Wikipediaより引用)
そして手塚先生は、当時中国では環境問題に関心がなくこの『木を植えた男』も中国人は感動しなかった,,このことが印象に残っている。
この後の文にはカナダ人を日本に招待したら、こんなに日本に自然が残っていたなんて知らなかった、カナダの方がひどいと驚かれたということを回想したことが書かれています。
さて、手塚先生とは少しずれ、先日ドラえもんのことしか書けなかった高畑勲監督との交流についてもお話いたしましょう。
fuzikofuziototezukaosamu.hateblo.jp
このこともちゃんと高畑勲展では紹介されていましたよ。
高畑勲監督はフレデリック・バック監督を師と仰ぐほど感銘を受けたそうです。広島国際アニメーションフェスティバルのグランプリ受賞などで手塚先生や高畑勲監督と交流があり、何回か来日されています。
フレデリック・バック監督の死去直前、高畑勲監督は自ら持ち寄った『かぐや姫の物語』をフレデリック・バック監督の自宅で上映し、「線が美しい。」「いいお土産になりました」とフレデリック・バック監督は高畑勲監督に感謝と敬意を表したそうです。